2022年、仙台育英が東北勢で初めて夏の甲子園を制し、深紅の大優勝旗がついに白河の関を越えた。太田幸司、田村隆寿、大越基、ダルビッシュ有、菊池雄星、大谷翔平、吉田輝星、佐々木朗希……。彼らでも成しえなかった東北の夢をいかにして叶えたのか。挑み続けた歴史とともに振り返る「104度目の正直 甲子園優勝旗はいかにして白河の関を越えたか」(角川書店)。この本から、第九章「仙台育英と須江航」の一部を紹介する。第九章 仙台育英と須江航 白河の関越え 2018(平成30)年1月、須江は佐々木の後継として仙台育英の監督となった。佐々木が前年に発生した野球部員の飲酒喫煙問題の責任をとり辞任したのである。秀光中の生徒たちの顔を見ると後ろ髪を引かれたが、母校の一大事を救うため監督要請を引き受けた。野球部には2017(平2018年6月4日まで対外試合禁止の処分が下された。高校野球の監督として、須江にまず与えられた仕事は、野球部の建て直し。マナーや規則を見直し、選手全員と面談をして、目指す野球の方向性を探っていった。選手の希望を反映して、佐々木の「自由と自主性を尊重する野球」の良さを引き継ぎつつ、自らが秀光中で築いた野球を高校にも導入していく。 秀光中でも掲げていたスローガン「日本一からの招待」は、そのまま高校でも用いた。選手にスローガンを解説する際、日本一には「東北初の」という言葉が加わった。さらにスローガンとは別に「地域の皆さまと感動を分かち合う」というチーム理念も定めた。「理念のない組織に成功は生まれません。そして、日本一になったとしても自分たちだけが喜ぶような取り組みであれば、その強さは長続きせず、周囲にも波及しない。2度と不祥事を起こさず、応援してくださる方を裏切るようなことはしない。地域に根ざした向こう20年間の仙台育英を作るつもりでスタートしました」 須江の取り組みは功を奏して、対外試合禁止処分がありながら2018年夏は甲子園出場。翌夏も連続出場を果たしてベスト8進出。その秋も東北大会で優勝し、2020(令和2)年春のセンバツ出場を決めた。コロナ禍でセンバツは中止になったがチーム強化は続き、2021(令和3)年センバツにも出場して再びベスト8進出。日本一は確実に近づいていた。特に2021年のチームは須江が秀光中時代に指導した選手に、高校の監督となり自らスカウトして入学時から指導した選手が加わった、須江にとって最初の集大成のようなチーム。監督就任にあたって考えた「甲子園優勝までの1000日計画」を実現できるという周囲の声も多く、実際に評価も高かった。 ところが、そのチームが夏の宮城大会4回戦でまさかの敗北を喫する。2022年に東北勢初優勝を成し遂げたチームは、この負けからスタートした。「人生は敗者復活戦」 須江の座右の銘である。高校時代は選手として挫折。大学では当初の理想とは異なる生活を送った須江らしいチョイスである。2022年のチームも、まさに「敗者復活戦」を勝ち抜いて甲子園の頂点に立てたといえる。「優勝したチームに何があったかと言われれば、弱かったということですよ。秋は東北大会で負けてセンバツに出られず、春の遠征も負け続き。それで、最後の夏の宮城大会だけは絶対に負けるわけにはいかないという並々ならぬ決意を、僕も選手も抱いたわけです」 そのためにすべきこととして出した答えは「県大会で勝つ野球」をすること。「自分たちは弱いと認め、身の丈に合った野球をするしかない。つまり、野球をかなり限定したんです。できないことはしない。今、自分たちができることだけをやる。すると攻め方も守り方もすごくシンプルに整理された。具体的には投手力を前面に打ち出し、ディフェンス中心に戦う。打線はとにかく状態のいい選手を並べて何点取る野球をするかを試合前に明確に決めて試合に臨む。余計なものが削そがれていった感じです」 その結果、宮城大会は薄氷を踏みながらも優勝を果たし、夏の甲子園出場を決めた。「決勝戦は3対1ですから、ギリギリ達成ですよね。ただ、甲子園を決めたことで一気にチームに解放感が出ました。締まっていたバルブがバシャーンとはじけたような。最低限のラインをクリアしたから、ここから先は身の丈を心がけつつ、自分たちが持っているものを発揮することに100%専念しようみたいな雰囲気になったんです」 秋の状態や夏の勝ち上がりを見た関係者の多くは「あのチームが甲子園で優勝するとは思わなかった」と評する。夏の甲子園のチームは、ある種、「別モノ」。高校野球でよく言われる「甲子園で試合を重ねるごとに成長していったチーム」だったのか。 さらに、細部でも前年夏の敗戦を活いかしていた。須江は評価基準をもとにチーム内競争を重視し、「レギュラーへの扉はいつでも開かれている」と選手に伝え、「日本一激しいメンバー争い」が繰り広げられていることを自チームの強みとしていた。ただ、仙台商戦の敗戦を選手たちと振り返り、「激しい競争があるゆえに自分のフォームやプレーとじっくり向かい合う時間がない」「大会ごとのメンバー交代が多いため控え選手の試合時のサポートが適切なタイミングで行われないケースが目立つ」など問題点を洗い出し、改善を試みている。こうした「敗者復活戦」的な取り組みを、須江は以前から日本一を目指すために東北勢の甲子園初優勝という観点でも行っていた。過去、東北勢が決勝で敗れた試合の映像を手に入る限り入手して、自分なりに分析していたのである。その結果、見えてきたのは、いくつかの敗因だった。「まず、クジ運が悪い。そして決勝の相手も悪い。たとえば大阪桐蔭、日大三、東海大相模と、多くは相手が強すぎる。ただ、対策はあるんです。強すぎる相手に万に一度、勝つための最低条件は、自分たちに疲労がなくフレッシュであること。そこから大一番でフレッシュな状態のピッチャーを何枚揃えられるかが指導の大前提になりました」 須江は、継投を好む新時代の監督として取り上げられることが多い。それは完全な間違いではないが、データの話と同様、継投が好きというよりも、日本一になるための方法として継投を選んでいるのである。 それは夏の甲子園の決勝戦、下関国際(山口)との試合に如実に表れていた。仙台育英の先発は左腕の斎藤蓉。秋のエースであり、須江が高い期待をかけていた投手である。しかし、故障の影響で宮城大会の登板はなし。戦列に復帰した甲子園でも、序盤は短いイニングのリリーフでマウンドに慣らし、準々決勝で夏は初めてとなる先発登板。5回を投げきった。そして準決勝は登板を回避。決勝は満を持しての先発だった。「継投が目的ではないんです。状況次第では完投も全く問題ない。実際、決勝戦は最初から斎藤蓉の完投でいいと思っていました。継投する気なんてさらさらない。本人にも言っています。行けるところまで行くぞ、と。もちろん崩れるケースも想定していましたし、実際は100球くらいでへばってくる可能性はあると読んでいたので継投の準備はしていました。それでも本人には、あくまでも代えないよと言い続けていたんです」 結果的に仙台育英は、斎藤蓉を7回でマウンドから降ろし、2年生右腕・高橋煌稀につないで勝利をつかんだ。 次に見えた敗因は「明確なゲームプランの不在」であった。「僕たちが高校時代に経験した準優勝がまさにそうなのです。何対何で勝つのか、何点取るべきなのか、そういう明確なゲームプランが僕たちにはなかった」 たとえば「当たって砕けろ」「自分たちの野球を精一杯やる」といった姿勢は潔く清々しい。だが、見方を変えれば本気で勝とうとしていない、とも言える。それは八戸学院光星の監督、仲井も似たようなことを話していた。第四章で記した仲井のコメントを再掲する。「東北勢が何度も決勝で敗れ続けたのもそうなのかもしれませんが、『優勝する』という気持ちが、本気のようで本気ではなかったのかな、と思うことがあります。自分たちとしては本気だったんだけど、相手はもっと本気だったというか」 この話を聞いた際、「では本気とは何か?」と考えさせられたが、須江が話す「明確なゲームプラン」とは一つの答えなのかもしれない。そして、明確なゲームプランの不在は、須江が東北勢の決勝敗退において、最も影響が大きいと見えた敗因につながるという。それは「自滅」である。「四死球もあれば、守備での無理な送球、暴走、相手を大きく見過ぎた故に痛打を浴びる……など自滅のケースはいろいろ。決勝敗退チームの多くは、何かしら自滅の要素があるように感じました。それで、とにかく『自滅の回避』に力を注いだんです」 明確なゲームプランがあれば、「この1点は取られてもいい」「ここはヒットくらい打たれてもいい」と余裕が生まれ、しなくともよい自滅を防げる。*続きは書籍でお楽しみください。 目次 はじめに 1989年8月21日第一章 秋田 ~草の根の野球熱~ /第二章 宮城 ~竹田利秋の挑戦~第三章 東北福祉大の台頭/第四章 青森 ~ミックス~第五章 楽天イーグルスの誕生/第六章 福島 ~いわき型総合野球クラブ~第七章 山形 ~強攻~/第八章 岩手 ~心を変える~第九章 仙台育英と須江航おわりに 2022年8月22日 Amazonはこちら 田澤健一郎KADOKAWA本体1,700円+税
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