【近江】多賀章仁監督|「勝った」と油断・・・手痛い逆転負けが監督としての出発点

【近江】多賀章仁監督|「勝った」と油断・・・手痛い逆転負けが監督としての出発点

強豪校、名門校を率いる監督たちも、かつては手痛い失敗を経験し、後悔したことがありました。その失敗や後悔はその後の指導にどのように生かされたのでしょうか? 01年夏と22年春には甲子園準優勝にも輝いている、近江高校の多賀章仁監督にお話を聞きました。(聞き手:沢井史)「勝負は下駄を履くまで分からない」――多賀監督は83年から近江高校のコーチとなり89年に監督に就任されて、指導者生活はコーチ時代も合わせると今年でちょうど40年となります。今回は長い指導者生活の中で、今でも心に刻まれている“失敗”を挙げていただくインタビューとなります。 試合をしている私からすると、失敗=試合での負け、ということになります。私は練習試合でも負けることは許せないと思ってしまうんですよ。練習試合でも負けたという結果をしっかり受け止めて、原因を突き詰めていく。公式戦はなおさらです。でも、公式戦は本当によく負けてきましたから・・・・・・。負けては原因追求をして、勝って、でもまた負けて…その繰り返しでここまで来たのかなという感じです。 ――その中で最も印象深い試合を挙げていただくと?89年春に監督となって、初めての夏の大会ですかね。当時、八幡商が滋賀県では圧倒的に強くて、88年夏から県大会で4連覇しているんですよ。その2連覇目の夏が86年で、決勝がウチとの対戦だったんです。試合は5回まで4-0でウチがリードしていて、5回が終わったグラウンド整備中でした。あの頃、私はタバコを吸っていて、喫煙所で当時は県大会のベンチ入りメンバーが18人で夏の甲子園に行けば15人になるので、3人誰を外せばいいのかなとか、甲子園に出た時のことをぼんやりと考えていたんですよ。「勝負は下駄を履くまで分からない」とも言いますが、今思うとそんなことを考えていた自分は愚かだったなと思いました。ーー6回裏に3点を取られて1点差に。 “これはやられるのでは”という気持ちになって、5回までの「勝ったな」、という気持ちから何とか逃げ切りたいとい、1点リードで何とか最後まで、と段々弱気になっていたんです。8回裏に先頭の4番打者がヒットで出塁して、5番打者が二塁打を打って、ノーアウト二、三塁になったんですね。でも、6番、7番打者から連続三振を取ったんですよ。でも、8番打者に初球をレフト線に叩かれて、それが逆転のツーベースになってそのまま負けました。 余裕がなかった初めての夏――目の前にまで来ていた甲子園切符が、こぼれてしまった。試合が終わって、周りからは8番を歩かせて、9番となぜ勝負しなかったのかと言われました。9番は6回から投げていた左ピッチャーでタイミングも合ってなかったですし・・・・・・。初めて監督になっての夏で、自分にも余裕がなかったんでしょうね。初球をしっかり叩いた8番打者を褒めるべきですが、あの当時の私には敬遠する考えが浮かばなかったんです。――八幡商は当時、県内では圧倒的な強さを誇っていましたね。あの夏は、周囲からまさか近江高校が決勝まで・・・・・・、ましてやあの八幡商を一時はリードするような試合をするなんて、という見方をされていました。その中で、ああいった経験ができた。ここまで来られて良かった、というのはありましたが、やっぱり日に日に悔しくなったのを覚えています。夏の大会は3年生にとって集大成の大会ですし、春や秋の大会にはない緊張感がある。そういう試合を経験したのが監督としての出発点ですね。今、ここまで甲子園に出させてもらえるようになったのを思うと、良い経験をしたと思います。――以降、近江高校は県大会で上位進出する試合が増えましたね。それから夏は毎年のように八幡商と当たりましたね。次の夏も2回戦、次は準決勝で対戦しました。どちらも負けましたが、その次の平成4年にも八幡商と準決勝で対戦して、初めて八幡商に勝って甲子園に出たんです。(取材・写真/沢井史)*インタビュー後編に続きます 関連記事 林優樹(近江)「甲子園は力以上のものを発揮出来る場所」2018.12.20 選手 【近江】苦労する冬場の練習メニュー2018.12.19 学校・チーム 【近江】全員で声を出しながらボールを追いかける「全員の空間」2018.12.17 学校・チーム 【膳所】「データ野球」を武器に斬新なシフト、頭を使う野球で勝負2018.9.20 学校・チーム 【彦根東】「ないことを嘆くのではなく、あるものを探す」(村中監督)2018.7.3 学校・チーム 【彦根東】課題を与えて考えさせる、3季連続甲子園を狙う文武両道校2018.7.2 学校・チーム

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