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激戦区神奈川にあって夏の甲子園4度の出場を誇る武相高校。近年は県内でもなかなか上位進出を果たせない時期が続いたが、昨年春の県大会では実に42年ぶりとなる優勝を果たし、復活を強く印象付けた。2020年8月に就任した豊田圭史監督は富士大でもリーグ戦10連覇を達成し、多くのプロ野球選手を輩出するなどの実績を残している。そんな豊田監督に指導者としての失敗談やそこから生かしていることなどを聞いた。やり過ぎていた部分もあった大学コーチ時代豊田監督は武相から富士大を経て一般企業に就職。3年間勤務の傍ら社会人野球のクラブチームでプレーし、2009年に富士大のコーチに就任している。そして2013年12月に29歳の若さで監督に就任。しかし元々は指導者になるつもりはなかったという。豊田監督「選手としてはプロや社会人の企業チームを目指せるようなレベルではなく、大学卒業後も神奈川に戻るつもりでした。ただ自分の前任の青木久典監督が当時はコーチで、監督に就任したタイミングでコーチを任せたいからということで岩手に残ることになりました。青木監督が法政大学に異動されるタイミングで、『理事長にも次の監督として伝えているから』と言われましたが、まさかそんな若さで自分が大学の監督になるとは思ってもいなかったです」そんな豊田監督だったが、就任からいきなりリーグ戦で10連覇を達成。これは北東北大学野球連盟記録であり、近年の大学野球では全国で見てもなかなかない偉業である。外崎修汰(西武)、鈴木翔天(楽天)、佐藤龍世(西武)などプロへも多くの選手を輩出。富士大の名前は一気に全国に轟くこととなった。外から見ていれば順風満帆な指導者生活のスタートであることは間違いない。しかし実際は決して成功の連続ではなかったという。「青木監督からチームを引き継いで当時は深夜まで強制的に練習させたりしていました。今考えるとやり過ぎていた部分もあったと思います」その甲斐もあってかいきなりリーグ戦で結果は出ましたが、選手とぶつかることもあったという。「ちょうど監督になって2年が経って、自分の就任前からいる上級生と、自分の就任後に入学してきた下級生が半々になった頃ですね。選手一人ひとりと面談をする機会を作っていたのですが、上級生の中には明らかに自分に対する不満をぶつけてくる選手もいました。下級生の方が優遇されているという言い分です。自分ではもちろんそんなつもりはなくても、そう受け取る選手がいたことは事実です。何とかリーグ戦では優勝していましたが、勝てたのが不思議な試合も多くて正直手応えはありませんでした」全国大会で感じた名将たちとの差最初に結果が出るとその後に苦しむ指導者も多いというが、豊田監督も同じような経験をしていたことは確かだろう。そこから気づいたことについて豊田監督はこう話す。「コーチの時は技術指導が重要だと思っていましたが、監督になってより重要だと感じたのがマネジメント能力です。特に大学生、富士大のような約200人もの部員を抱えているチームは統率することがいかに難しくて、そのためにマネジメント能力が必要だということを学びました」名門高校から来ている選手もいれば、中には部員10人くらいのチームでやっていたという選手もいる。そこからリーグ戦のベンチに入れるのは25人で、150人以上はスタンドで応援することになる。それを統率して同じ方向を向かせ、同じ目標に向かわせるというのは並大抵のことではない。「全国大会に出て明治大の善波達也監督、東洋大の髙橋昭雄監督、亜細亜大の生田勉監督などと対戦させてもらって、その差を凄く感じました。当然名門の大学には力のある選手も多いですけど、自分が全国大会でなかなか勝てなかったのはその差だけではなかったです。それから野球の指導者ではなく、企業のマネジメントなどの本もよく読んで勉強するようになりました」こう話すようにリーグ戦では10連覇を達成したものの、豊田監督時代の富士大は全国大会の最高成績は2回戦進出となっている。豊田監督自身も、全国大会になるとリーグ戦と同じように指揮を執ることができなかったと感じていたそうだ。ただそんな中でもあらゆる面で変化はしていたという。「大人数のチームで同じ方向を向くにはやはり選手たちの理解を得ることが第一だと考えるようになりました。それから全体ミーティングをとにかく多くするようになりました。あと気をつけていたのはリーグ戦になかなか出られない選手の練習環境と試合環境を与えること。Bチームのオープン戦を年間100試合は入れるようにしました。時には高校生とか力の差がある相手チームもあったのですが、それでもとにかく力を抜かずに一生懸命やることだけは徹底してくれということも言っていました。今、東北の大学でBチームのリーグ戦もやるようになりましたが、あれもこちらから色んな大学に働きかけてスタートしたものです。そうやって機会を与えていくと、Bチームからラッキーボーイみたいな選手も出てきて、それがまたチーム全体を活気づけることになります。大所帯のチームで指導する中で、そういう工夫も必要だということは学びました」豊田監督から名前の挙がった東洋大の高橋昭雄元監督も、AチームではなくBチームの練習を積極的に見て、引き上げる選手を常に探していたという。そういったことの積み重ねがチームの活性化に繋がっていった部分もあったのではないだろうか。後編では武相高校に異動となった経緯と、そこから結果を出すようになった要因などを紹介する。(取材・文:西尾典文/写真:編集部) 関連記事 【東海大相模】「選手が持っている力を発揮させてあげたい」2022.7.1 学校・チーム 【東海大相模】引き継がれる東海大相模の「攻撃野球」2022.6.27 学校・チーム 【立花学園】辛い経験もプラスに転換!もっと応援してもらえるチームを目指す2020.9.25 学校・チーム 【日大藤沢】昨夏の神奈川準優勝チームの自粛期間とこれから2020.8.15 学校・チーム 『打撃伝道師 神奈川から甲子園へ――県立相模原で説く「コツ」の教え』バッティングの考え方と技術論2020.5.12 企画 『打撃伝道師 神奈川から甲子園へ――県立相模原で説く「コツ」の教え』を紐解く4つのキーワード2020.5.11 企画 【慶應義塾】チームスローガンは『GRIT』2019.1.22 学校・チーム 【慶應義塾】日本一になるため、新しいことに「挑戦」するオフシーズン2019.1.21 学校・チーム
元記事リンク:【武相】豊田圭史監督|大学監督時代に学んだマネジメント能力の重要性