![]()
高校野球を頑張っている皆さんにもやがて社会に出て働く日が訪れます。まだまだ先のことかもしれません。でも今から「自分は将来どんな仕事をしたいのか?」を考えていると、進むべき道、進路がぼんやり見えてくると思います。このコーナーでは、かつては高校野球を頑張り、現在は社長として活躍されている”高校野球の先輩”に「仕事」、そして「働く」ということについてお話を伺っています。 今回お話を聞いたのはグローバルポーターズ株式会社代表で、秋田商業で甲子園も経験している米沢谷友広さん。まずは高校時代のことを聞きました。逃し続けた甲子園憧れの甲子園、まさかのメンバー漏れ”英雄”に憧れ、海外志向へ 逃し続けた甲子園 ーー米沢谷さんは名門秋田商業で甲子園に出られているそうですね。何年の時ですか? 3年の夏ですね。1年の夏は決勝で金足農に一時は10点リードしていたんですけどそこから大逆転されて、2年秋の東北大会もあと一つ勝てばセンバツだったんですけど東北高校に負けて逃して。最後のチャンスでやっとでしたね。ーー1年の夏はなかなか衝撃的な負け方ですね...スタンドから応援していたのですが、悔しかったですね。前の年に石川雅規さん(現東京ヤクルト)がエースで甲子園でベスト16まで行かれていて、中学の時に「(秋田商業にきたら)5回甲子園に出させてやる」って声をかけていただいて、僕らも5回甲子園に行くつもりで片道3時間かかる場所にある秋田商業を選んで寮にまで入ってましたから。5回行くつもりだった甲子園がいきなり目前で潰えてしまって...めちゃめちゃ悔しかったですね。ーー5回出るつもりで入学したのに「1回もいけないかも...」という焦りはありました? 3年のときは攝津正(元ソフトバンク)と加藤光教(元中日)というプロレベルが2枚いてセンバツでもベスト8まで行ってる秋田経法大附属(現・明桜高校)がライバルでした。なので本当に「甲子園に行けないかも...」とは思いましたね。ーー最後の夏、決勝で勝って甲子園を決めた瞬間のことは覚えていますか?最後の夏はピッチャーの4番手だったんですけど、ベンチから飛び出してマウンドに向かって走ってるうちに大号泣してましたね(笑)。3年生はみんな泣いてましたね。ーー甲子園出場を決めた日から甲子園での試合まで、どんな感じで過ごすのですか?決勝の次の日から2、3日はランニングとかストレッチとかのコンディショニングがメインでしたね。その後は通常のガチ練習でしたね。あとは東北とか北海道のチームがよくやる、長袖を着たりして暑さ対策の練習をしていましたね。真夏なのに冬トレと同じようなウエアを着込んで。ーー毎日「あと○にちで甲子園だ」みたいなワクワクした気持ちで過ごすんですか?そうです、そうです。ーー当時の甲子園での目標は?目標はベスト4でしたね。前年の新チーム結成から秋の東北大会では負けてしまいましたが秋田県内ではずっと無敗でしたから。監督さんもベスト4は狙えるだろうと思ったのだと思います。実際は開会式直後の開幕戦でその年ベスト4まで進む育英高校(兵庫県)に9-2で負けてしまったのですが。相手が地元の高校ということもあり完全なアウェイでしたね。何もできませんでした。浮き足立ちまくりましたね(笑)。憧れの甲子園、まさかのメンバー漏れ 左が秋田商業時代の米沢谷さん(写真/ご本人提供) ーー甲子園でマウンドに立つ機会は?甲子園では秋田大会よりもベンチ入り人数が2人減らされるのですが、そこで私は外されてしまいました。ーー外されるのを告げられたのはいつですか?大阪入りしてからですね。ーー心の準備みたいなものはあったのですか?ありましたね。ピッチャーの4番手でしたし、当落線上だなって。ーーどのようにして伝えられたんですか?メンバーの名前が呼ばれて背番号が配られて、「名前、呼ばれなかった......」という感じですね。ーーなかなかキツいですね......でもそのあとに監督さんの配慮で、秋田のメディアの皆さんを集めて、ベンチから外れる3年生のピッチャー2人が公式練習で甲子園のマウンドで投げるから取材してあげてくれと言ってくれましたね。それで救われましたね。それがなかったら絶望しかなかったですね。この3年間なんだったんだって。ーーメンバーから外れてしまったことは親御さんにはどのように報告されたんですか?あまり覚えてないですけど、電話で「ダメだったわ......」みたいなことを話したと思います。親は泣いてましたね。新チームになってからずっと背番号11番、18番を繰り返していたんですけどベンチには入っていたんですね。ちょこちょこは投げていてそれなりに評価はされていたと思うんですけどね。親も自分の息子が当落線上にいるというのは分かっていたとは思うんですけどね。ーー直前にメンバーから外されてしまってスタンドから素直に仲間を応援できました?できましたね。甲子園に出られたことが夢のようなことでもありましたし、正直もう肩も壊して限界にきていましたので、試合に出られてもベストパフォーマンスは難しいと分かってましたから。逆にベンチに1年生と2年生のピッチャーが入っていたんですけどそこを応援する気持ちの方が強かったですね。”英雄”に憧れ、海外志向へ ーー甲子園から帰ってきてからの地元の反応は? やっぱりキャーキャー言われるものですか?キャーキャー言われましたね(笑)。田舎なんで鞄に「秋田商業」って入ってると追いかけられたりとかしましたね。石川さんが活躍されて秋田商業をブランド化してくださっていたのもあったと思いますけど。ーー高校野球を頑張ったこと、甲子園に出たことでその後の進路で何か影響はありましたか?大学は神奈川大学なんですけど、秋田商業で言われていたのは、最低でも日商簿記検定2級に合格して部活で全国大会に出れば就職も進学も苦労しないよ、ということでした。僕は当時から少し海外志向があったので、いくつかの指定校推薦の中から国際経営を学べる神奈川大学を選びました。ーー海外志向が強かったのはどういった理由からですか?一番好きな選手である野茂英雄さんの影響ですかね。アメリカで一世風靡していて、その頃から自分も将来はアメリカでー、みたいなことを考えていましたね。野球ではなくビジネスで。ーー大学で野球は続けられなかったんですよね?高3の夏に、今考えれば肩も限界ではないし伸び代もまだあったと思うんですけど、自分の中では区切りとして考えてしまったんですね。大学野球にせよ、社会人野球にせよ、今よりも上のレベルで(競争に)勝ち続けるのは難しいだろうなと思ったんですね。 (取材・構成・写真/永松欣也) 次回へ続きます。 ▼プロフィール 米沢谷友広(秋田商業出身)神奈川大学を経てスポーツ小売業大手ゼビオ株式会社に入社。経営企画室でスポーツ事業に関わる広報活動やスポンサード、新規事業開発、M&A等の投資関連業務に従事。プロ野球独立リーグやJリーグ、アイスホッケークラブ等の運営にも関わり、スポーツ小売やスポンサーサイドからみたクラブチーム経営に携わる。その間、カリフォルニア大学にてアントレプレナーシップやビジネスインキュベーション、コーポレートファイナンス単位を取得。その後はAmazon Japanにてスポーツ&アウトドア事業部の商品戦略部統括部長などを歴任し、2017年に現在の会社グローバルポーターズ株式会社(https://www.global-porters.com)を起業。トータルベースボールカンパニー構想の実現を目指して野球界の発展に努めている。
元記事リンク:社長になった「球児」に会いにいく|米沢谷友広(秋田商業出身)グローバルポーターズ株式会社代表(1)
