2022年夏の甲子園、悲願の東北勢初優勝を飾った仙台育英高校野球部。そこに至るまでには「二度消えた甲子園」があった。 「地域の皆さまと感動を分かち合う」という須江航監督が就任時から掲げる理念のもと、苦境に立ち向かう仙台育英の取り組みに迫った一冊。今回はこの本の第3章「『日本一からの招待』を追い求めて」からの一部をご紹介します第三章『日本一からの招待』を追い求めて高校2年秋、選手からGMに転身 今から22年前の春、「仙台育英で甲子園に出たい」という一途な想いで、小さい頃から育った埼玉県比企郡を出て、宮城に来ました。大学はさらに北に向かい、青森の八戸大(現・八戸学院大)へ。気付いたら、人生の半分以上を東北の地で過ごしていることになります。さすがにもう、凍てつくような冬の寒さにも慣れました。ベンチコートは欠かせませんが。東北の先生方、地域の皆さま、そして家族のおかげで、充実した日々を過ごしています。選手にも話していることですが、いつ何を、どのタイミングで選択するかによって、人生も野球の勝敗も決まってきます。15歳のときの選択が正しかったかどうかはわかりませんが、住み慣れた町を離れたことによって、お金では買うことができない強烈な経験を得ることができたのは確かです。この第3章では、私の原点とも言える高校時代、そして自分の力のなさを痛感した秀光中での12年間の日々を振り返ってみたいと思います。小学生、中学生のときは、田舎のチームのキャプテン。一番・ショートが定位置でした。進路は、はじめは地元の進学校・松山高校を考えていたのですが、仲の良かったエースが栃木の宇都宮学園(現・文星芸大付)に進学すると聞き、「自分も県外で勝負して、甲子園に出たい」と思うようになったのです。当時、地元の中学から東北高校に進んでいた先輩がいて、仙台育英の設備や環境の良さを何度か聞いていました。「育英はすごいぞ」と。純粋すぎる想いだけで、仙台育英一択となり、夢と希望を抱いて、仙台に向かうことになりました。今思えば、若さゆえの勢いだったのでしょう。入部して数日で、場違いなところに来たことに気付きました。レベルが高いことはある程度想像していましたが、もう想定以上の世界。3年生が果てしなく大人に感じ、同級生のレベルもケタ違い。これから3年間、圧倒的な努力をしても、到底追いつけない。野球人生で、初めて味わった挫折でした。1年時、唯一目立ったのは、校内のマラソン大会です。後に都大路で活躍するような駅伝部のランナーに競り勝っての優勝。そのときのメダルは、自宅に大切に飾ってあります。佐々木先生は今でも、「須江は長距離だけは速かった」と言うのですが、スタミナと根性にだけは自信がありました。野球のほうは、2年生の夏まで練習試合すら出たことがなく、紅白戦で1試合か2試合出場した記憶しかありません。当時はB戦も組まれていなかったので、ひたすら練習していました。でも、そういう時代です。「何でチャンスをくれないんだよ」なんて思ったこともありません。夜遅くまでバットを振るなどして、何とか食らいつこうとしていました。下手なこと、才能がないことは、自分が一番わかっている。選手として、甲子園に出たい。その気持ちに変わりはありませんでした。2年生の新チームになったとき、その後の人生を左右する大きな出来事がありました。当時、チームの決まりとして、最高学年からひとり、GM(グラウンド・マネジャー)を出さなければいけない。GMは、佐々木先生と選手の間に入る役割があり、前任の竹田先生が作ったポジションです。GMになった時点で、プレーすることはできなくなります。先輩からの推薦もあり、候補に挙がったのが私でした。おそらく、同級生に厳しく言うタイプの性格だったからでしょう。先輩から「オマエしかいないぞ」と説得されましたが、正直、絶対にやりたくありませんでした。地元を出て、仙台育英で勝負しに来たにもかかわらず、選手としての戦いから逃げたように思われるのが、恥ずかしかったからです。浅はかな考えだと、今ならわかります。結局、誰もやろうとしなかったことと、「自分がチームの役に立てるのはこれしかないんじゃないか」という想いで、引き受けることにました。やるからには、絶対に勝つ。甲子園で結果を残す。選手のとき以上に、勝つことに固執するようになりました。なぜなら、結果を出さなければ、自分がGMになった意味がなくなると思ったからです。私の選手としてのキャリアは、ここで終了。高校時代は、練習試合にも一度も出ていません。これは、今でも大きなコンプレックスになっています。本当に、何ひとつ、実績がありませんから。それゆえに、その後に秀光中で監督の役割をいただいたときには、他の人がやらないような発想や工夫でチームを作っていきたいと思いました。選手時代の実績が何もない分、「負けたくない」という想いだけは、人一倍持っている自負があります。*続きは本書にてお楽しみください 書籍情報 「二度消えた甲子園 仙台育英野球部は未曽有の苦境をどう乗り越えたのか」 著・ 須江 航 ベースボールマガジン社定価1760円 Amazonで見る 【目次】 はじめに第1章 幻のセンバツ3月11日、センバツ中止発表センバツのベンチ入りをかけた熾烈な戦い背番号はチーム内競争を勝ち抜いた証進むべき道を先に示していく「知恵と工夫と情熱」を持って取り組む自粛期間中に人としての学びを深めるスポーツと社会の距離が近づいたPV制作で3年生の進路をサポートする「仕方がない」で終わらせることはできない次の世代に残るものは何かを考える日本一の夢は後輩たちに託す第2章 理念作りから始まった2018年個人面談からスタートした監督1年目保護者に向けて発行した『硬式野球部通信』「理念」のない組織に成功なし「野球=陣地取りゲーム」成長のステップは「わかる→できる→いつでもできる」大阪桐蔭・西谷監督からの学び災害援助・地域貢献と真剣に向き合う「基準」があるから「評価」ができる夏のメンバー入りをかけた部内紅白戦チームが前に進むときには「疾走感」がある「継投」と「継捕」の組み合わせ県大会決勝で見せたバッテリー交代2018年世代が築いた仙台育英の文化第3章 『日本一からの招待』を追い求めて高校2年秋、選手からGMに転身3年春センバツ準優勝からの苦しみ週2日の練習、ボール3球から始まった秀光中2009年夏、指導者人生を変えた1敗2010年夏、指示の曖昧さが生んだ敗戦2011年春、価値観が変わった東日本大震災全国のみなさんに「ありがとう」を伝えに行く2013年春、これまでの須江航をすべて捨てる2013年夏、継投に泣いた愛知全中野球のゲーム性をとことん突き詰める日本一から遠ざかった3年間勝ちに至るまでのプロセスを学ぶ第4章 今どき世代の強みを生かした育成法測定数値で客観的に選手を評価する今どき世代は取捨選択のスピードが速い選手選考の「現状」と「期待」を開示選手選考レースを振り返るほぼ1年中続くメンバー争い秋に向けて1、2年生に現在地を提示リクルートの肝は「大学で活躍できるか」チームに必要な「求人広告」を示す“旬”の選手を使っていく思考ができあがりつつある高校生意図的に待つ時間を設ける第5章 高校野球の完結に向けて「真剣勝負 ~本質を知り、本質を生きる」夏の代替大会の位置付け宮城大会は自分たちのプライドをかけた戦い東北大会は未来に向けた戦い甲子園交流試合はメッセージ性の強い戦い理想の終わり方を求めて「小中NEXTプロジェクト」への想いおわりに Amazonで見る
元記事リンク:【仙台育英】須江航「二度消えた甲子園 仙台育英野球部は未曽有の苦境をどう乗り越えたのか」